私は聴きたい曲を選ぶ際、あくまで「○○というアルバムの中の○○という曲」という意識を持っている。
そして私の場合、「○○」というアルバムタイトルを聞いた時、真っ先に浮かんでくるのは一曲目の出だしの音でも、アーティストの顔でもなく、「絵」である。すなわち「アルバムアート」である。『Fragile』と聞いて真っ先に思い浮かぶのはRoundaboutの出だしではなく、あのこわれものの惑星なのだ。『Relayer』と聞いて真っ先に思い浮かぶのは一曲目の錯乱するイントロではなく、あの静謐な行軍なのだ。
私にとってアルバムアートとは、自分自身とアルバムを結びつけるものであると同時に、アルバムそのもののイメージとして、非常に重要な位置を占めている。
PC/ネットワークオーディオをするうえでよく言われている(ような気がする)ことのひとつに、「モノとしての楽しみがない」というものがある。
この場合の「楽しみ」とは、ショーンオブザデッドじゃあるまいし、ディスクをフリスビーにして遊ぶことではないだろう。
では何か。実際には人それぞれだと思うが、「アルバムを手に取って、アルバムアートを愛でる楽しみ」がかなり大きいのではなかろうか。
レコードからCDに移り変わった時にも同じことが言われていた気がする。ジャケットが小さくなったせいで、アルバムアートを愛でる楽しみが減ってしまったと。
それがさらにディスクさえなくなり、純然たるデジタルファイルに移行するに及んで、物理的な「モノとしての」アルバムアートは確かに消滅してしまった。
それでは困る。
先に述べたように、私とアルバムを……音源を結びつけているのはアルバムアートである。
PCオーディオにせよネットワークオーディオにせよ、アルバムアートの色彩が舞い踊る環境でアルバムに出会い、音楽に触れたいと思うのは、当然のことだった。
なんてことはない。
CDで当たり前のようにやっていたことを、ネットワークオーディオにおいても実現すればいいだけのことだ。
こんな具合に。
リッピングや管理編集をしている最中、多くの場合ソフトが勝手にアルバムアートを拾ってきては音源に埋め込んでくれる。アルバムアートの一覧から選曲していくという当初の目的だけなら、PCオーディオやネットワークオーディオという言葉が生まれる遥か以前に達成されている。
しかし、何か……物足りない。
……大きさだ。
大きさが足りない。
そして、こうなった。
もうずっと昔、とあるショップで、LINN DSとiPadを用いたこのデモンストレーションを初めて見た時の衝撃と感動は今も鮮明に覚えている。
これだ! 私が求めていたものはこれなんだ!
音源をデジタル化することにより、管理運用と音楽再生の自由度・利便性が著しく向上し、ディスクベースでは実現不可能なユーザビリティを実現する。「どのようにしてそれを実現するか」はさておき、その利点自体は分かりきっていた。
何より素晴らしかったのは、上述のユーザビリティに加え、「モノとしてのCD――アルバムアートがネットワークオーディオの中に生き続けていた」ことだ。
さらに奇しくも、iPadにスクエアで表示させたアルバムアートのサイズは、CDのそれとほとんど同じである。
iPadは、手に取れる。まさにCDケースのように。手に取って、アルバムアートを愛でることができる。
この通りに。
この大きさまで拡大するとなれば、埋め込む画像の解像度もかなりのものが必要だ。さらにiPadのRetina化に端を発するタブレットの超高解像度化を考えれば、そんじょそこらの解像度では足りない。必然的に、アルバムアートをスキャンして自分自身で画像を用意するという結論に至る。私は初めてBDを見て以来DVD不買の誓いを立てるような人間なので、画質には徹底的にこだわる。
ソフトに丸投げはしない。自分で買ったCDだからこそ、音源に埋め込むアルバムアートも自分で用意する。CDが生き続けるために。それは、モノとしてのCDに対する敬意でもある。
しかし、iPadとコントロールアプリによって、ネットワークオーディオの中にCD――アルバムアートを復活させる試みは、決して簡単なものではなかった。
以下の二つの記事はその記録である。
・iPadに高解像度でアルバムアートを表示させるための長い道のり
・iPadに最も美しいアルバムアートを表示させるコントロールアプリは?
数えきれないトライ&エラーの果てに、私は快適なユーザビリティと、美しいアルバムアートを愛でる楽しみを両立している。
なぜアルバムアートにこだわるのか。