【2023/04/07追記】
MQAの経営破綻が報じられた。
【2019/02/21追記】
Stuart氏はメリディアン社の創業者であることは事実ですが全株式を売却し独立。数年前からCEOはリン出身のJohn Buchanna氏です。従って貴記事中のメリディアンという固有名詞が2回使われていますがどちらも事実と異なります。それをMQA Limited とすることが妥当です。
コメントで以上のご指摘を頂いたため、記事中の「メリディアン」という表記を「MQA Limited」に修正しました。
【追記おわり】
私がデジタル・ファイル音源のライブラリに第一に求めるものは「普遍性」(汎用性、互換性、将来性etc...)である。
『普遍的なライブラリ』とは、
・大元となる音源(CDやダウンロードしたファイル)からの情報欠落がない
・将来に渡ってタグの編集やフォーマットの変換に対する可逆性・柔軟性を備えている
→非可逆圧縮のフォーマット、例えばmp3はこの時点でNG・すべての音源にアルバムアートを含む必要なタグが完全な形で登録されている
→タグを使えないフォーマットは最初からNG・どのようなハードウェア/ソフトウェアであっても等しく機能する
→限られたハード/ソフトでしか扱えないフォーマットは使わない
以上の要素を完璧に満足するライブラリである。
また、普遍的なライブラリとは、構築にあたって自分自身の意思を込めることで、同時に『自分にとって理想的なライブラリ』にもなる。
この普遍的なライブラリを構築し、適切に管理・メンテナンスしていけば、再生ソフトを替えようが、システムをUSB DACからネットワークオーディオプレーヤーに替えようが、ネットワークオーディオプレーヤーからUSB DACに替えようが、『使う音源は同じ』のため、手間も問題も生じない。
この根本的な方針は、いい加減極まる音源管理の果てに破局を迎えたライブラリを一度完全に消去し、いつかは手に入れたいと願ったネットワークオーディオ環境に向けてCDのリッピングをいちからやり直した時から変わっていない。
この「普遍的なライブラリ」という考え方は、PCオーディオやネットワークオーディオといった方法論に先立つ、私のファイル再生に対する取り組みの根幹を成すものだ。
そしてこの考え方は、元々は「今まで大切に積み上げてきたCDのライブラリを、データの形で、将来に渡って、もっともっと活用したい」との思いから生まれたものだが、すぐにハイレゾ音源を含むライブラリ全体に適用された。実際に、CDからリッピングした音源だろうがダウンロード購入したハイレゾ音源だろうが、音源ファイルとしての振る舞いは同じ。違うのは基本的にサンプリングレートとビット深度だけで、管理運用を分けて考える必要性はない。
さらにこの考え方をもって、【音源管理の精髄】&【ネットワークオーディオTips】を書き、ファイル再生/ネットワークオーディオの魅力とノウハウを伝え、業界全体の底上げをしようと、謎の使命感を抱いて今まで突っ走ってきたのである。
【音源管理の精髄】 はじめに 【ネットワークオーディオTips】
では、「普遍的なライブラリ」という考え方に照らして、MQAはどうなのか。
まず、MQAはロッシー/非可逆圧縮である。
MQA音源はMQA化された時点で「大元のデータ」から変質しており、二度と元に戻らない。MQAの「Music Origami」は、あくまで「MQAの枠内で折り畳みと展開が行われる」という話に過ぎない。
どれだけ音響心理学やら神経科学やら秘伝のタレで時間軸解像度が向上やら言ったところで、ロッシーである。ちなみに音響心理学ならMP3だって使ってるぞ。
どれだけ「データ的にロッシーであることより、音質的にロスレスであることの方がよほど重要だ」と主張したところで、ロッシーなものはロッシーである。
また、MQAはソフトとハードの両方を縛るクローズドな技術であり、エンコードとデコードはブラックボックスである。
つまり、どれだけユーザーや業界へのメリットを強調したところで、MQA音源はMQA Limitedの掌の上でしか真価を発揮できない。
そしてもし、将来的にMQA Limitedが「MQAやめました、もう知らん」となったら、いずれMQA音源に折り畳まれた情報にアクセスすることは不可能になる。
MQA音源は対応環境でなくてもCD相当の品質で再生できるのでご安心ください?
「折り畳まれた情報に価値がある」と言って売っていたのに?
MQAで音源を買うことは、最初から「大元のデータから変質した音源」を買うことであり、「CDをMP3でリッピングした。しかし、そのCDは既にない」という状況に等しい。
「普遍的なライブラリ」という考え方と、MQAは絶対に相容れない。
MQAのメリットとしては、データを「折り畳む」ことによって、「普通のPCMハイレゾ音源に比べてファイルサイズを非常に小さくできる」ことも挙げられている。
確かに、サンプリングレートやビット深度が上がれば上がるほどハイレゾ音源のファイルサイズは倍々で増えていくので、この主張には一理ある。例えば352.8kHz/24bitでは、50分のアルバムで6GBもの容量に膨れ上がる。DSD256のAKIRAのサントラに到っては、57分で11.1GBにもなる。
しかし、もはや1TBのSSDが1万円台で買える現代にあって、「普通のハイレゾ音源よりも容量が小さい」と言ったところで、現実的にどれだけのメリットを持ち得るかは謎である。
「普通のハイレゾ音源は容量がでかすぎてダウンロードに時間がかかる/MQAなら時間がかからない」「普通のハイレゾ音源は容量がでかすぎてストリーミングには不適/MQAなら好適」という主張も、結局は将来的なネットワークインフラの高速化によって解決され得る話である。「現時点ではメリットが生じる」ことはあっても、本質的なメリットとは言い難い。
ダウンロードに関して「早ければ早いに越したことはない」というのは事実で、実際にDXDやDSD256といった音源をダウンロードしようものならそれなりに時間もかかるが、一般的な96kHz/24bitや44.1kHz/24bitの音源であれば数分足らずで落ちてくる(しかも、96kHz/24bit程度の音源であれば、MQAとFLACにそこまで大きな容量差はない)。毎日毎日何枚も何十枚も超ハイスペックな音源のダウンロードに勤しむというのなら話は別だが。
ストリーミングに関しても、サービスを提供する側にとって「音源のファイルサイズ(とそれに伴うビットレート)が小さい」ということは大きなメリットだが、Qobuzがハイレゾ音源をFLACでそのままストリーミングしているという現実を前にすれば、MQAの主張は色褪せる。「ハイレゾ音源をそのままストリーミングできるのならそれに越したことはない」のである。
そんなこんなで、私は音質云々や音楽業界に対する意義云々以前に、「自分自身の音楽ライブラリの普遍性を大切にしたい」という理由から、「MQA音源を自発的に入手してライブラリに迎え入れること」に一切興味がなかったのである。
私とMQAの接点は、「RoonでTIDALを使っている、そしてTIDALはTIDAL MastersでMQA音源を用意している」ということでしかなかった。
それでも、日々音楽を聴いている自分のシステムで実感と納得の伴う「同スペックのMQA音源とハイレゾ音源の聴き比べ」ができない状況で、「もしかしたらMQAは普通のハイレゾ音源に比べて圧倒的に高音質かもしれない」という可能性は残った。もしMQAが本当に圧倒的に、大元のデータを尊重する思考さえ完全に塗り替えるほど高音質なら? ……と考えると、MQAに対する態度は曖昧なまま留め置かざるを得なかった。
しかし今になって、Roon 1.6によって「TIDAL Masters/MQAとQobuz/ハイレゾFLACを聴き比べる」ことが可能になり、比較の結果として「MQA音源は同スペックのハイレゾ音源と比較すると音質が劣る」という私自身の結論を得た。
【決戦】TIDAL Masters/MQA vs Qobuz/ハイレゾFLAC
そして、FLACでそのままハイレゾ音源をストリーミングするQobuzがRoonで使えるようになったことで、「TIDALを使わなければいけない理由」と同時に「TIDAL MastersでMQAに接する理由」も失われた。
私の根幹にある「普遍的なライブラリ」という考え方とMQAはそもそも相容れない。
RoonとQobuzの連携により、私とMQAの唯一の接点だったTIDAL/TIDAL Mastersを使い続ける必然性も消滅した。
MQAの音質に関しても「MQA < ハイレゾFLAC」で白黒ついた。
もはやMQAに対する私の態度を保留しておく必要はなくなった。
だからこの記事を書いている。
「ずっと曖昧なままにしておけばいいのに」、と私自身思わなくもない。むしろ、そうするのが大人の対応なのだろう。
だが、そういうのは私の性に合わない。
ハイレゾ音源をそのまま聴けるなら、そのまま聴けばいい。
わざわざ秘伝のタレをかけてMQAにする必要はない。
さよなら、MQA。
今後私がオーディオ趣味に邁進するなかで、「MQAであること」や「MQAに対応すること」が魅力を持ち得ることはないだろう。
最後に、「ハイレゾCD」という名で売られているMQA-CDについても触れねばなるまい。
「どうしてもPCもネットワークも無理、それでもハイレゾが聴きたい」という需要があることは理解している。そうした需要に対し、(名称も含めて)ハイレゾCDが巨大な訴求力を持っていることも承知している。
しかし、MQAに関して私の中で白黒ついてしまった今、私がハイレゾCDをすすめることはない。
従来とは異なるノウハウが必要な再生システムを提案することに伴う覚悟と責任、そして大切に積み重ねてきたCDへのおおいなる敬意をもって、ファイル再生/ネットワークオーディオを推進するというのが、今も昔もこれからも変わらない私の姿勢である。
どこまでもディスクに留まろうとするハイレゾCDは過渡期における救済や次善策にはなり得ても、未来にはなり得ない。それどころか、オーディオ業界の主流がハイレゾCDに現を抜かすなんて事態になれば、せっかくみんなで頑張ってきたファイル再生/ネットワークオーディオへの取り組みを大きく阻害することになる。
ハイレゾCDを訴求することや、ハイレゾCDを聴いて高音質と感じることについて、私から言うことは特にない。前述のように、ハイレゾCDの意義と訴求力は理解している。ただ、ハイレゾ音源をそのまま聴くに越したことはないのに、と思うだけである。
しかし、「ファイル再生の全領域において、ハイレゾCD、ひいてはMQAこそが最高品質であり最適解であり未来である」という主張には、私は絶対に徹底的に全身全霊で真向から反対する。
もし将来的にMQAが覇権を握り、販売される音源もストリーミングされる音源もすべてMQAになり、MQA化を経ていないハイレゾ音源が一切手に入らなくなり、「最初に作られたそのままの姿で音楽を聴きたい」という夢が完全に潰えるのなら、その時は悲しみの涙を流そう。